かつて梅毒は完治が期待できない性感染症として恐れられていました。江戸時代の医師、杉田玄白は「已に痘瘡・黴毒、古書になくして後世盛に行はるる事あるの類なり」と書き残しています。昔は医学書に天然痘や梅毒について書かれていなかったのに、最近は増えたという意味。杉田玄白といえば「解体新書」の翻訳にかかわった、日本の解剖学の先駆者として中学の歴史の教科書にものっている訳ですが、専門分野は「梅毒」でした。杉田玄白は「自分の患者の1000人中700~800人が梅毒」と書き残していますが、今とはくらべものにならない有病率の高さに驚きます。
梅毒はスピロヘータというらせん状の微生物の一種である、梅毒スピロヘータによる感染による疾患です。起源は諸説ありますが、通説ではコロンブスがアメリカ大陸よりヨーロッパに持ち込んだというもの。梅毒はヨーロッパ全域に広がったあと、大航海時代の波にのり、バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見すると、インドに上陸。その後中国に達すると、日明貿易経由で日本にも梅毒が伝来します。日本で梅毒が初めて記録されたのが1512年。種子島への鉄砲伝来は1543年ですから、鉄砲よりも早くヨーロッパから伝来したことになります。
波濤を超えるスピロヘータの大冒険といったところで、いかにもバイタリティーにあふれた生物といった印象をうけるかもしれませんが、梅毒スピロヘータ自体は生体外では長時間生存できない弱々しい微生物。ヒトと共に生きる道を選んだ割には筋肉、臓器、中枢神経まで侵す困りものです。
梅毒診療を専門とした杉田玄白ですが、残念ながらこの時代有効な薬は開発されていません。1775年長崎にオランダ東インド会社の外科医として赴任したツェンベリーが水銀を服薬する治療法を伝え効果を上げたとされますが、水銀中毒のリスクを負う危険な治療でした。
1910年には秦佐八郎らがサルバルサンを開発しますが、これまたヒ素で危険な治療。効果も不十分だったようです。ノーベル賞の候補にも挙がりましたが、最終的には受賞を逃しました。
1927年にウィーンの精神科医ユリウス・ワグナー・ヤウレッグが、梅毒患者をマラリアに感染させて高熱で梅毒スピロヘータを殺すという壮絶な治療法を開発。
梅毒治療の歴史は毒をもって毒を制するものばかり・・・
しかし当時として画期的な治療で第27回ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
梅毒が安定して治療できるようになったのは1941年、ペニシリンが開発されてから。われわれ泌尿器科医が安心して梅毒治療にあたれるようになったのも、先人の苦闘のたまものなんですね。