なんじゃもんじゃの木

5月2日

強い日差しの中、近所の街路樹が綿を載せたように白い花をたくさん咲かせています。DSCF2021

DSCF2009「あれは何の木だろう?」「なんじゃもんじゃです」水戸黄門が尋ねてそうなったとのことです。本当かどうか・・。DSCF2019

不思議な名前の木ですが、Wikipediaなどによれば「なんじゃもんじゃ」の木は和名「ヒトツバタゴ」といいモクセイ科の落葉高木で、中国、台湾、朝鮮半島および日本では対馬、岐阜県東濃地方の木曽川周辺、愛知県の隣接部に隔離分布する珍しい分布形態をとります。DSCF2011

五月に雪のような白い清楚な花を咲かせます。緑の葉の上に白い綿が乗っているという感じで咲きますが、なかには葉を出すことを忘れてしまっているような木もあります。どこにも変わり者はいるものですね。
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連休初日

ゴールデンウィークがはじまりました。高速道路の渋滞も始まっているようです。私自身は今日明日は仕事があり、朝、通勤途中で建築現場に立ち寄ると、連休初日ですが作業が行われていました。

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今日は後ろからもパシャリ!

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脱水症にご用心

好天が続きます。

気温が上がるこの時期より脱水症状で病院に運ばれる方が増えてきます。

特に高齢者は脱水になりやすい。もともと若い人と比べて体内の水分量が少ないこと。口渇感を感じにくくなってきているので、脱水状態に気づきにくいこと。すぐに食欲が減退してしまうので、さらに水がとれなくなり病状が悪化しやすいこと。水分や電解質のバランスをとる腎臓の機能が年齢とともに低下していることなどが脱水症が高齢者に多い要因です。

泌尿器科領域からみると、年齢と共に夜間頻尿の頻度が増えてくるのですが、夜起きる回数を減らすため安易な飲水制限を行ったりすると容易に脱水状態となってしまうので要注意。ご高齢の方が急に食欲が落ちたり、体重が減ったりする場合は脱水の可能性がないか確認する必要があります。「痰がからんで出しにくい」などの訴えから疑うことも。

診察室では、まずは脇の下が乾燥していないかみたり、手の甲の皮膚を指でつまんでみる「ハンカチーフサイン」を確認したりします。水分量が正常なら皮膚はすぐ戻りますが、脱水状態だとすぐには戻りません。脱水状態だとつまんだハンカチのように見えるというのが名前の由来。これらは簡便で自宅でもできるので、経口摂取が少なくリスクの高い患者さんやご家族に外来でお伝えしてチェックしてもらったりしています。

まずはこまめな水分補給の意識づけ、部屋を高温状態にして過ごさないなどの配慮が大事です。

元気な若い方も油断は禁物。屋外で体を動かしていると結構水分をロスします。口渇感がでる頃には随分水分を失っているので、症状がでる前に計画的に水分補給を行う必要があります。激しい運動を行う場合などには塩分などの電解質の補充も忘れずに。水や茶だけでは電解質の喪失はカバーできません。

ゴールデンウィーク中、屋外で過ごす機会のある方も多いと思いますが、こまめな水分摂取に気を付けてよい休日をお過ごしください。

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かがやき

4月30日

今日で4月も終わり。好天続きで、日差しも強く、日中は暑さを感じるほどです。我が家のつつじも花盛り。このつつじは、植木が大好きだった義父が、あまり日の当たらない狭い通路の片隅に植えた小さな挿し木でした。それから何年もかかって1.7メートルの塀を超え、さらに乗り出して降り注ぐ太陽をいっぱいに受けています。義父は昨年亡くなってしまいましたが、つつじはすばらしい、いのちのかがやきを訴えています。???????????150430_1000(身をかがめないと、通路が通れません)

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そうだ城跡、行こう

本日も晴天。「書を捨てよ町へ出よう」は寺山修司の評論ですが、街はちょっと暑いので今日も野山へ出てランニングです。書は捨てられず、遠出の際にはお供させていますが。

今日の場所は恵那市、岩村城跡です。

岩村城は前回の苗木城以上に広く知られているかもしれません。100名城の一つにも入っていますし、3大山城とも言われます。他の2城は高取城(奈良県)、松山城(岡山県)。100の選定も色々もめそうですが、3大山城の選定は相当異論がでそうですね。七尾城、鳥取城、春日山城、小谷城、最近観光客が集まっている竹田城、私の大学のあった島根県の月山富田城(こちらも「天空の城」で売り出し中!)も・・と錚々たるライバルがいます。ただ3大山城の方は戦国期だけでなく、江戸期にも使用された山城という共通点があります。

岩村城の特徴としては標高717mと、江戸諸藩の府城の中で最も標高が高いこと。戦国期には織田家、武田家の攻防の最前線として激しい戦闘が繰り広げられ、何度も落城している城でもあります。霧がよく発生するので別名「霞ケ城」。あと山城にしては井戸が17か所と非常に多く、現在でも多数残っています。美しい六段壁の石垣、石畳の登城坂が残りますが、特徴的な六段壁の石垣は崩落防止のため、追加工事を繰り返して補強した結果なんだそうです。説明板の絵図は確かに1段。美の追求や実用のためではなく、苦心の産物なんですね。

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危ないので石畳の城跡は徒歩で回り、ランは城下で。途中「燃料切れ」になり五平餅でチャージ。味噌だれに塩分と糖分が含まれているので即効性あります。味噌とクルミが香ばしい。食べ過ぎると走れなくなるので自主規制。

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建物のない城跡の話を続けていますが、クリニック建築は順調。壁もさらにできてきています。準備着々です。

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最小の城持大名

好天が続きます。放っておくと出てくるお腹を引っ込めるべく、週末は少し遠出して里山ランニングしてきました。増やすのは努力が要らないが、減らすのは大変なのが体重・・・ 厄介なものです。

場所は中津川・苗木城跡。中津川市を貫流する木曽川の岸にある城山(432m)に築かれた山城です。鎌倉時代からの領主遠山氏が徳川幕府により1万500石の大名に取り立てられ、中世からの城を改修したものです。もともと巨岩むき出しの岩山なので、天然の巨岩と石垣を組み合わせた異形の城。岩山で平坦な土地が少ないため、京都の清水寺のような懸造としてスペースを稼いでいました。戦国時代は織田家・武田家の攻防の前線となった城ですが、平和な江戸期になっても平地には降りず、先祖伝来の山城を改修して住み続けました。もう一つ異例なのは大名として最小の1万石程度(1万石からが大名です)で、城を持っていること。通常なら城を持てず、陣屋で執務を行う規模です。

建物は明治に取り壊されてしまっていますが石垣、礎石などの遺構は良く残っており、天守があった場所は展望台となっています(ちゃんと懸造にしてある)。別名「霞ケ城」(近くの恵那の岩村城と同じ通り名? 岩村城の方がメジャーかな)、「赤壁城」とも。白漆喰ではなく赤土がむき出しの外壁だったようです。その理由については、現地の案内板では「木曽川に住む竜が白い色を嫌い、何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまった」という伝説をのせていましたが、1万石の最小大名なので外壁にコストはかけられなかったでしょうね。

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蛙の合唱の中、周囲を10km走ってから苗木城へ。展望台からの眺望は最高で恵那山、木曽川、中津川市街を一望。アップダウンのランニングで太ももパンパンでしたが疲れが吹き飛びました。気持ちもリフレッシュして今日からは仕事。

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クリニックの建築も着々と進んでいます。安全第一でお願いします。

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今日の現場

4月26日

今日は作業はないのもと思い、外からだけでも見てみようと、工事現場に行きました。ところが休日でも大工さんが出ていて、ちょうど作業を終わって、戸締りをしていたところで、幸運にも中を案内していただけました。思ったより各部屋は大きく、玄関、待合室、診察室、検査室などを見て回りました。意外に柱が多くずいぶん頑丈にしていただいているようです。DSCF1993DSCF1983DSCF1984DSCF1987DSCF1992DSCF1986DSCF1988

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かえで もみじ

4月25日

空は晴れあがり、さわやかな風が吹き、風薫る季節の到来です。庭の草花、木々が新しい芽を出し、命の息吹を感じます。我が家の「かえで(もみじ)」は1週間前に紫色に近い芽吹きがあり、あっという間に赤い葉をいっぱい茂らせています。秋の紅葉ばかり注目されている「かえで」ですが、今の季節には、よく見るとちゃんと花を咲かせています。我が家のものは、葉と同じ色の「がく」「はなびら」があり、白い「おしべ」が見えます。常緑樹の「くちなし」も、初々しい新芽を出しています。白い花が咲き、まわりが甘い香りに包まれるのは来月です。DSCF1955DSCF1970DSCF1971DSCF1963

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順調

日付かわってしまいましたが、4/24 夕の建築現場です。壁も徐々にできてきています。雨が続いていましたが、今週は幸い晴天続きでした。

来週も落ち着いていますように。

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一夜城伝説

4月23日

今日も快晴。クリニックの方も工事が進み、柱、梁、屋根、壁などができてくると図面で見ていた時よりも建物が大きく感じられます。

1日で柱、梁が立ち上がったのを見て墨俣一夜城の話を思い浮かべました。

桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長が美濃攻略に乗り出す拠点として、墨俣に出城を築くことを重臣達に命じるが、斎藤龍興からの妨害でうまくいかない。新参者、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が名乗りをあげ即興の築城に成功した・・・

「墨俣一夜城」のエピソードは太閤の出世物語には欠かせません。

あまりにも有名なこの話ですが、史実かどうかは議論の的。信長関連の資料として信頼の高い「信長公記」には一夜城の記述はありません。墨俣一夜城の記述は前野家に伝わる文書「武功夜話」(17世紀前半に成立?偽書説も)が元ネタ。それによれば墨俣に侵攻した秀吉の総兵力は2140人。信長から借り受けた兵は鉄砲隊の75人。1万数千本の材木を木曽川へ流し、安全な場所で築城用に加工して現場で組み立てた。戦国版プレハブ工法です。斉藤家の攻撃を馬防柵でしのぎながら3日間で城を造ったとされています。

現在 岐阜県大垣市墨俣町には、1991年につくられた墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)がありますが、これには大垣城を参考にした天守(!)があります。さすがに現代でもこれを3日で建てるのは無理。馬防柵、櫓、小屋からなる砦だったというのが現実的でしょうか。

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久しぶりの晴天続き。こちらの「築城」も無事進むことを祈ります。

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