上飯田の地 ②

3月12日

名古屋南部で生まれ育った私にとって名古屋北部である「上飯田」は、子供のころは、遠い遠い「地の果て」の印象でした。1974年(昭和49年)に全廃された「名古屋市電」。熱田神宮から出る22系統の終点が「上飯田」。少年の私には想像するしかない、そして少し憧れる「未知の領域」でした。「上飯田」が未知の領域から、現実のものとなったのは、ひらたく言えば、「初めての上飯田」は迷い込みでした。高校入試を控えN高等学校に願書提出に行き、帰れば「お勉強」が待っているので、数人で「歩いて帰ろう」。早春の矢田川の河原で砂かけ合ったりお絵かきしたりして楽しくお遊び。日も傾いて我に返り「さあ帰ろう」。そして気づけば未知の国。「どうやって帰ろう」半泣きの思いで町の方に歩いて行くと、そこには懐かしき「市電!」「22番!」これで帰れるぞ!そこが、「憧れの地の果て、上飯田」でした。(22系統は当時通学していた中学の横を通っており、毎日見ていたのに、その時は懐かしく思ったのを覚えていますが、当時の風景は全く覚えていません)

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上飯田の地 ①

3月11日

上飯田があれば下飯田がありそうです。ありました。御成通りの西側、上飯田からは南西方向、名古屋城の方向です。城を中心に考えると上下(かみしも)反対のように思えますが、別の理由があるのでしょうね。このあたりは昔は農村で、近くを流れる矢田川の伏流水が田から湧き出て(井)、井田と呼ばれ飯田の字があてられたようです。大正時代に紡績工場などが進出し、工業地帯を形成し、現在はその工場跡が大規模住宅団地(公団住宅、尾上団地、市営住宅)や小学校・中学校になったとのことです。クリニック予定地は木材工場の跡地で、瀬戸から水運で運ばれてきた陶器類を、輸出のために箱詰めする、その木箱を作っていたとのことです。敷地をよく見ますと、陶器の色とりどりの破片が多数みられます。土地利用の変遷から、時代の流れを感じます。

DSC_0228今日、工事が始まりました

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地盤改良工事とは

3月10日

土地そのものが、土台(基礎)を含めた建屋の重みに耐えられるように、柱状のセメントを深部の固い地盤まで入れる作業だそうです。結果、固い地盤からセメントの柱が建屋を支えることになります。その数なんと百本!深さ約4メートル、用いるセメント末は34トンとか。今度見に行きます。

 

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看板が立ったよ

3月9日

地鎮祭が終わって、建設予定地に看板が立ちました。建ってみると結構目立ちます。少し気恥ずかしい。明後日から地盤改良工事です。IMGP1832IMGP1830

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はじまりのはじまり

3月7日

地鎮祭 いよいよ上飯田泌尿器科内科クリニック、はじまりはじまり。名古屋市北区八龍町に10月1日はじまりをめざして建築がはじまります。

更地
IMGP1805 地鎮祭当日IMGP1828記念撮影
IMGP1815

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