朝夕は秋の気配を感じますが、まだまだ日中は暑い日が続きます。
人数は減ってきているものの、まだ脱水症状で搬送される方はおり熱中症、脱水症への警戒は必要です。
クリニックの建物はいよいよ来週月曜日に引き渡し。機械類の搬入などはこれからです。
10月開業にむけ、着実に準備をすすめます
昨日はクリニックの採用面接でした。
うだるような炎天下の中、面接のために足を運んでくださった皆さま、ありがとうございました。
限られた時間の中で過不足なく自分の思いを伝えきるのはなかなか難しいですね。
面接でよく聞かれる長所と短所にしても、2つは表裏一体。ある局面での長所は、また違った局面では短所として働くものでもありましょう。今回は質問する側でしたが「自分が聞かれたら、どう答えるかなぁ」と考えながら面接に参加していました。「正しい答え」というのはありませんしね。
本来複雑な人間のうちの一面を、わずかな時間垣間見て、それで全体をある程度見たことにする(するしかない)「面接」はかなり大変な、そして考えてみればとんでもないことでもあります。
「働かないアリに意義がある」という進化生物学者の長谷川英祐さんの著書があります。社会の維持に「働かないアリ」の存在が不可欠であることを示した興味深い内容。全員が一斉に働くシステムだと、全員同じくらい働いて、全員同時に疲れて果て、誰も働けない時間が生じてしまうのでコロニーの維持に重大なダメージを与えてしまうというもの。
組織の維持に余力が大事。
・・・とはいえ、まだ立ち上がってすらいないクリニック。
余力は残念ながらなく、少数のスタッフが全員で頑張って立ち上げていくしかありません。
社会にとって意義のある存在になり得るのか。ここからが正念場です。
感染治療の歴史の中で抗菌剤開発の礎となったのが人類初の抗菌薬ペニシリンです。この発見は全くの偶然・・というより失敗から見つかったもの。先日とりあげた梅毒治療もペニシリンの開発により大きく前進しました。
1928年イギリスの微生物学者フレミングがブドウ球菌の培養実験中に、窓際に放置してしまったので青カビが混入。カビーのコロニーの周辺にブドウ球菌が生育しない領域(阻止円)が作られていることを発見します。青カビから細菌を殺す成分がでているのではないかと考え抽出されたのがペニシリンです。
名前の由来は青カビの学名がPenicillum notatumだったので、ここから。
凡人では「ああカビが生えちゃった」で捨ててしまうところですが、そこでよく観察し疑問点を抽出するあたりが、さすが科学者。
このフレミング、ペニシリン発見前にも、やはり細菌の塗抹試験の最中にクシャミをして、数日後に顕微鏡で確認すると唾液のついた場所の細菌のコロニーが破壊されていたことから、唾液の中に細菌を破壊する酵素(リゾチーム)があることを発見したりしています。
現在リゾチームは食品添加物として使われています。もちろん唾液からではなく、卵白から作っているようですが。
観察力は素晴らしいけど、培養中に唾液を飛ばしたり、忘れて検体を窓際に放置したり・・と、実験としてはちょっとズボラな気も。世の中几帳面な人だけでは駄目ということでしょうか。
かつて梅毒は完治が期待できない性感染症として恐れられていました。江戸時代の医師、杉田玄白は「已に痘瘡・黴毒、古書になくして後世盛に行はるる事あるの類なり」と書き残しています。昔は医学書に天然痘や梅毒について書かれていなかったのに、最近は増えたという意味。杉田玄白といえば「解体新書」の翻訳にかかわった、日本の解剖学の先駆者として中学の歴史の教科書にものっている訳ですが、専門分野は「梅毒」でした。杉田玄白は「自分の患者の1000人中700~800人が梅毒」と書き残していますが、今とはくらべものにならない有病率の高さに驚きます。
梅毒はスピロヘータというらせん状の微生物の一種である、梅毒スピロヘータによる感染による疾患です。起源は諸説ありますが、通説ではコロンブスがアメリカ大陸よりヨーロッパに持ち込んだというもの。梅毒はヨーロッパ全域に広がったあと、大航海時代の波にのり、バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見すると、インドに上陸。その後中国に達すると、日明貿易経由で日本にも梅毒が伝来します。日本で梅毒が初めて記録されたのが1512年。種子島への鉄砲伝来は1543年ですから、鉄砲よりも早くヨーロッパから伝来したことになります。
波濤を超えるスピロヘータの大冒険といったところで、いかにもバイタリティーにあふれた生物といった印象をうけるかもしれませんが、梅毒スピロヘータ自体は生体外では長時間生存できない弱々しい微生物。ヒトと共に生きる道を選んだ割には筋肉、臓器、中枢神経まで侵す困りものです。
梅毒診療を専門とした杉田玄白ですが、残念ながらこの時代有効な薬は開発されていません。1775年長崎にオランダ東インド会社の外科医として赴任したツェンベリーが水銀を服薬する治療法を伝え効果を上げたとされますが、水銀中毒のリスクを負う危険な治療でした。
1910年には秦佐八郎らがサルバルサンを開発しますが、これまたヒ素で危険な治療。効果も不十分だったようです。ノーベル賞の候補にも挙がりましたが、最終的には受賞を逃しました。
1927年にウィーンの精神科医ユリウス・ワグナー・ヤウレッグが、梅毒患者をマラリアに感染させて高熱で梅毒スピロヘータを殺すという壮絶な治療法を開発。
梅毒治療の歴史は毒をもって毒を制するものばかり・・・
しかし当時として画期的な治療で第27回ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
梅毒が安定して治療できるようになったのは1941年、ペニシリンが開発されてから。われわれ泌尿器科医が安心して梅毒治療にあたれるようになったのも、先人の苦闘のたまものなんですね。