内装

クリニックの建築は、内装ボードを張る段階に入ってきています。内装は機能面はもちろん重要ですが、建物内の印象を大きく作用します。

内装に凝るのは昔も変わりません。たとえば地元 名古屋城本丸御殿の玄関の襖は「竹林豹虎」。豹と虎が向かい合っている有名な狩野派の障壁画。訪問者をちょっと威圧的にお出迎えです。

ちなみにこの頃の障壁画では、虎と豹がよく一緒に描かれていますが、江戸時代初期、日本では豹は雌の虎だと考えられていたためです。たとえば世界文化遺産二条城の二の丸御殿には虎と豹が仲良く水を飲んでいる絵(これも狩野派)があります。名古屋城、二条城の豹虎も作者としては雄の虎と雌の虎(豹)を書いたつもり。まぁ豹も虎も日本にはいなかったのでしょうがないですね。

狩野派といえば、代表格の狩野永徳の有名な「唐獅子図屏風」も「ライオンか?」といわれると、ちょっと違う。まぁ獅子はライオンをもとにした幻獣なので写実的でなくても問題はないけど。なお神社にいる狛犬のうち、口をあけている方(阿形)は「獅子」で、口を閉じている方(吽形)が「狛犬」で、昔は角をもっていました(なんでイヌに角がある? 諸説あるみたい)。かつては区別されていましたが、今ではどっちも狛犬と呼ばれていますね。ネコ科の獅子はイヌ呼ばわりされて怒っているかも。

さて名古屋城本丸御殿に戻ると、当初は初代藩主義直の居館及び政務を行う場所として使われましたが、わずか4年ほど使用されただけで空き家となり、その後は将軍の上洛の際の宿舎として使用されました(義直は二の丸御殿に引っ越した)。将軍家で泊ったのは初代家康、2代秀忠、3代家光、14代家茂と、たったの4人だけ。随分豪華な迎賓館ですね。

クリニックの内装はセレブな武家屋敷とは違い、勇壮で威圧的である必要はなく(・・というよりそれでは困る)、豪華絢爛でもありませんが、来院された方が少しでもホッとできるようなものにしようと考えています。

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日本で最初の泌尿器外科医?

日本における泌尿器科学の歴史というと、公式には明治30年代初頭のドイツより皮膚科学と共にもたらされた・・となるわけですが、江戸時代にすでに陰茎切断術(梅毒)、陰嚢水腫手術、子宮脱、膣膀胱瘻などなど、多彩な泌尿器科手術を行っていた外科医がいます。

花岡青洲です。

もちろん有名なのは、実証されているものとしては世界で初めて全身麻酔を用いた外科手術(乳癌手術)を成功させたこと。残っている肖像画を見ると、家紋が外科結び!

世間で一般に知られるようになったのは、有吉佐和子の「花岡青洲の妻」がベストセラーになってからでしょうか。小説のテーマは嫁姑問題で、両者の確執が描かれていますが、肝心の青洲にはあまりスポットライトはあたっていないような。まぁ題も花岡青洲の妻ですしね。

青洲はチョウセンアサガオ、トリカブトを主成分とした薬草に麻酔効果があることを発見。動物実験と人体実験(治験というべきかもしれませんが)のすえに全身麻酔薬(通仙散)を完成させます。小説では母、妻が実験に参加し、妻は失明し・・となるわけですが、史実では実験に参加したかどうかも不明確みたい。記録に残っている範囲では、乳癌手術患者は152名にも及びます。術後生存期間が判明するものだけを集計すると、術後生存期間は3年7カ月となるそうです(最短8日、最長41年)。

今の基準では成績が悪いように見えますが、当時は早期発見はありませんし、世界の状況をみても決して悪くありません。

例えば19世紀後半を代表するドイツの外科医ビルロート(胃癌手術を初めて成功させた)でも手術後の再発率は80%、3年生存は4~7%程度だったと伝わります。なおビルロートの名前はビルロートⅠ法、Ⅱ法と現代でも胃癌の術式に名が残っています。

乳癌の根治術が確立するのは19世紀末、全身麻酔や無菌手術が普及し、アメリカのハルステッドが大胸筋や腋下リンパ節も含めて一括切除する術式を確立してから。拡大切除ができるようになって再発率が6%まで低下しました。

花岡青洲の画期的な麻酔薬「通仙散」は秘伝とされたので、正確な調合などの記録は残っていません。毒性が高く、取扱いの難しい薬だったようです。

通仙散は残っていませんが、花岡青洲の開発した十味排毒湯、中黄膏、紫雲膏は現代でも使用されています。個人的には処方したことのない薬ばかりですが、紫雲膏の材料紫根は「痔にーは~」のCMで有名な「ボラギノール」の成分だったというとイメージがわくでしょうか。

やはり麻酔薬と乳癌手術のインパクトの大きい花岡青洲。記録に残る日本で最初の泌尿器外科医であると認知される日はやっぱり来ないかな。

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あめふり

今日も明け方から雨降り。通勤の途中でいったんあがりましたが、傘をさして家を出ました。

雨の多い気候の日本。雨に関する歌もたくさんあるのですが、私自身が雨をみると必ず頭に流れるのはこの曲。

あめあめ ふれふれ かあさんが

じゃのめで おむかえ うれしいな

ピッチピッチ チャップチャップ

ランランラン

童謡「あめふり」 北原白秋作詞、中山晋平作曲です。

バケツをひっくり返したような豪雨でも、この歌が頭に流れるので、全身びしょ濡れでも、なんだか楽しい気分になれます。

もちろん歌詞では、かあさんが迎えにきてくれてうれしいのであって、濡れねずみになるのがうれしいと歌っている訳ではないのですが 。

蛇の目傘は、昔は広く使われていた傘ですが、ビニール傘全盛の現代ではちょっとおしゃれな傘になってしまっていますね。

中山晋平作曲というと「証城寺の狸囃子」も有名でしょうか。

作詞は野口雨情。「しゃぼん玉」の作詞者でもあります。この曲の作曲も中山晋平。

雨に関する童謡で言えば「てるてる坊主」も、野口、中山コンビの作詞作曲です。このコンビ、童謡をたくさん作っています。

さて「証城寺の狸囃子」

証、証、証城寺

証城寺の庭は

ツ ツ 月夜だ

みんな出て 来い 来い 来い

おいらの友達ァ

ぽんぽこ ぽんの ぽん

小さい頃よく歌いました。私にとって月はウサギでなくタヌキです。十五夜の月をみて跳ねるのはあえてタヌキでなく、ウサギでいいかなとは思いますが。

千葉県の證誠寺につたわる狸囃子伝説をもとにした歌ですが、こうして書き出してみると「あめふり」同様、リズミカルな曲ですね。

雨はいったんあがっているようですが、予報では終日天気は不安定と。今晩は月夜は期待できそうにありません。

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梅雨

降ったり、やんだりの気候が続きます。

いかにも梅雨の時期の天候ですね。

梅は春の花のイメージが強かったので、なんで梅雨というんだろうと調べてみると、梅の実が熟する時期からだとか。一説にはこの時期は湿気が高くカビ(黴)が生えやすいので「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、この音が転じて梅雨とよばれるようになったとも。カビでは語感が悪すぎる・・風情もふっとんでしまいます。素直に梅のなる時期の方がいいな。

普通に読むと「つゆ」とは読めませんが、なんでかな。

「つゆ」が最初から日本にある言葉で、中国からはいってきた「梅雨」と無理やり結んだんだろうと思っていましたが、調べてみると「つゆ」と呼ばれるようになったのは江戸時代からとのことで、「ばいう」が先で、「つゆ」が後のようです。「露(つゆ)」から来たなど諸説あるようです。

風情では梅の実ですが、医療の点では、この時期は体の表面に生えるカビ「白癬」(足にできるといわゆる水虫)やら、「食中毒」やらが猛威を振るい、患者さんが増える時期でもあります。

食中毒というと、飲食店のニュースが目につきますが、食中毒の20%は家庭で発生していると言われます(厚生労働省報告症例)。その90%は細菌性の食中毒です。

予防の3原則は原因菌を「つけない、増やさない、殺す」とされています。

新鮮な食材を購入する。冷蔵や冷凍の必要な食品は買って帰ったら、冷蔵庫、冷凍庫にすぐに入れる。細菌の多くは10℃以下で増殖がゆっくりになり、-15℃以下で増殖が停止します。冷蔵庫、冷凍庫にいれると細菌が死ぬと勘違いしている方も時々いらっしゃいますが、早めに使いきることが大事です。病原性の大腸菌O157などは室温では20分程度で倍に増えてしまいます。また細菌を殺すため、加熱が必要な食品は十分に加熱することも大事。中心部の温度、75℃以上1分以上が目安とされます。

あとは手洗い。調理前後、食事前はもちろん大事ですが、生魚、肉をさわったあとも次の作業に移る前に手を洗うことが重要です。

予防しても腹痛、下痢、嘔吐などの症状がでる場合、はやめに病院にかかりましょう。

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湖畔のランニングコース

今日は朝から雨。いよいよ本格的に梅雨のシーズンです。

先週末は残念ながら、胃腸炎のため家でおとなしくするはめに。水分はしっかりとって、食事は控える。腸管安静が基本ですね。

しょうがなくこれまでとった写真をパラパラ眺めていたら、少し前に日帰りで諏訪に行った時のがでてきて、その時のことを思い出したりして過ごしました。諏訪といえば、諏訪大社が有名。祭神は建御名方神(タケミナカタノカミ)。出雲大社の祭神、オオクニヌシの子とされます。大和朝廷の出雲侵攻で、オオクニヌシともう一人の子は出雲で降伏(国譲り)しますが建御名方神は承知せず戦いを挑み、やぶれて諏訪まで逃れ、諏訪で降伏したというのが「古事記」に残る言い伝えです。

ただ今回は日帰り強行日程。時間あれば寄ろうとは思っていましたが、ちょっと厳しかったのであきらめました。

諏訪大社にも行かず、何しに行ったのかというと、諏訪湖の周囲はグルリとランニングコースが整備されているので湖畔を走りにいったのでした。1周16kmと手頃な距離、アスファルト塗装に弾性のあるゴムチップ舗装をしていて非常に走り易い。当日は曇り気味だったので、残念ながら富士山はのぞめませんでしたが、湖をわたる風が涼しく快適に1周走ることができました。

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非常にいいコース。でも諏訪は少々遠くて、定番コースにはできませんね。

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上の写真の対岸。湖畔の風が心地よい

ランニング終了後、すぐ近くの高島城に寄って帰ることに。

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もともとは諏訪湖の水が城際まで迫り、諏訪の浮き城とも呼ばれた城ですが、現在は埋め立てすすんで住宅街の中。現在の天守は昭和45年の復興天守だそうです。

だいぶ胃腸の調子は良くなってきましたが、あと少し自制が必要な状況。ランニングは写真だけで、もう少し我慢。雨も降ってますしね。

クリニックの建築現場。案内板など細部をつめて準備をすすめています。

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いざ桶狭間へ

5/10に清州城跡から熱田神宮まで走ったので、今週末は続きで熱田神宮をスタートして桶狭間を目指して走ることにしました。先月とあわせて桶狭間の戦いのルート再現です(当時は干潮時の海岸沿いを走っているので道路事情が違いますが)。

1560年5月19日、主従6騎で清州を午前4時頃に出た信長一行は熱田神宮までの7kmほどを、4時間かけて疾走(時間かかりすぎ・・歩き?)、熱田神宮で1000人ほどがそろいます。

熱田神宮は遠い出雲と関わりの深い神社でもあります。熱田神宮の神宝は草薙剣(天叢雲剣)。出雲神話でスサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ、斐伊川がモデルとも)を退治して際に大蛇の尾からでてきた剣です。スサノオが天照大神に献上、天皇家、伊勢を経て尾張に伝わったとされています。一説には尾張の語源自体が草薙剣がヤマタノオロチの尾を割ってでてきたから(熱田国風土記逸文)というのもあるようですが、これには異論も多いみたい。草薙剣については江戸時代熱田神宮の神官が実見した記録が残っており、長さは2尺8寸(約85cm)、刃先は菖蒲の葉のようで、中ほどは厚みがあり、木の方は魚の背骨のような節が立っており、全体に白っぽい剣だったと記録されています。弥生時代に作られた白銅製の剣の特徴だそうで随分長い剣のようです。御神体として扱われているので、まず一般人が拝観することは許されませんね。

熱田神宮を出て東に走り、途中ちょっと道草をして笠寺観音に。尾張4観音の一つです。

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さらに東へ。信長軍は善照寺砦(今は公園)で、ようやく全員揃い、3000名ほどになります。

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旧東海道を走り抜けます

ここから桶狭間へ向かい今川義元を討ちとるわけですが、本当の古戦場の位置は現在でも様々な説があります。そのうちの一つとして国指定史跡、桶狭間古戦場が整備されています。

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まだ随分体力が残っていたので、さらに東へ。桶狭間の戦い前夜に今川義元が泊まった沓掛城跡に向かいました。北方の長久手、岩崎方面からの街道と鎌倉街道の交叉地点である要衝の地に。現在は城跡公園として整備されていますが、本丸、堀、諏訪曲輪など遺構が意外に良く残っています。

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沓掛城跡、今川義元もこれが最後の一夜とは思わなかったでしょう

さすがに足も疲れてきたので、最寄りの前後駅まで走って、ここでゴール。帰りは電車に。これからさらに暑くなるので、屋外活動の際は水分摂取を意識的に行う必要があります。だいぶ水分とりましたが、それでもランニング前後でマイナス1kg強。思った以上の脱水状態です。

DSC00229        現場の状況 正面の自動扉がついています

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日陰者に注目

今日からはしばらく我が家の日陰者に注目です。かわいそうに「日陰でも育ちます」というエフをつけられ売られていました。昨年我が家の庭に仲間入りしたばかりの、まだまだ小さな「クチナシ」ですが今朝一輪開花しました。DSCF2133

八重咲きのクチナシで、あまり日が差さない場所にいても、健気に咲く清楚な白色の花です。

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夕方になるともう一輪開花していました。顔を寄せると甘い香りがします。

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もうしばらくすると庭に出るだけで甘い香りに包まれるでしょう。

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