ご無沙汰しておりました。名誉院長です。
10月1日に開院しましたが、その前後は、肉体的にも精神的にもゆとりがなく、長らくブログは院長に任せきりでした。おかげさまで開院後、クリニックは順調に滑り出し、地域の皆様にも認知されつつあるようです。
いつの間にか日が短くなり、毎年この時期を知らせる菊が我が家の庭の一角に一斉に咲きます。
今となっては立派ではありませんが、私も家内もふだん「やゑさんの菊」と呼んでいて、格別な思いをはせるのもこの時期です。
やゑさんは渥美のおばあさんで、40年ほど前、私が大学を卒業し、名古屋の南部の病院で研修を始めたころに、手術を受けた患者さんです(その時はまだおばさんでした)。しかし、渥美から名古屋は遠く、やゑさんはだんだん通院が困難となり、私の退職後しばらくしてからは、豊橋駅近の病院に通院されていたとのことでした。その間私は、大学病院、市民病院などを転々とし、何かのご縁があったのでしょう、20数年前、その豊橋の駅近病院に赴任しまた巡り合いました。
病院の外来でお付き合いさせていただいている間、やゑさんから、毎年、お正月用の菊が送られてくるようになりました。とても立派な大輪の菊で、活きが良く2月になってもまだ咲いていました。やゑさんのお宅は電照菊で有名な渥美の菊農家です。
菊が着くと、家内は家じゅうの花瓶をかき集め、菊を活けます。私は横にいて、家内が切った切れ端を、切りなおして、土に挿していきます。数年が経つとわが家の花壇の一角が菊畑のようになりました。手入れするわけではなくほぼ放置ですから、1本に一つの大きな花が咲くのではなく一本に多数の小さな花が咲きます。ときには菊よりも雑草が増えて、菊が見えなくなってしまったり、雑草にこだわりすぎて菊の根を弱らせてしまったり・・。「やゑさんの菊、大丈夫かねえ」などと言葉をかわすこともありました。
やゑさんは更に齢を重ね、豊橋への通院も難しくなり、近くの先生に経過観察をお願いしお付き合いが途切れ、それからしばらくして菊の便りもなくなりました。
この時期になると「やゑさんはどうしているかしら」と家内が口にするのが常となり久しくなりました。
つい先日、偶然にやゑさんの息子さんと出会いました。10年ほど前に「老衰」で亡くなったとのことでした。息子さんにわが家の「やゑさんの菊」の話をして二人で懐かしみました。